指数
家に戻ったサリバンは英雄になった。ニューハンプシャーでは1780年に再びサリバンを大陸会議代議員に復帰させた。1781年、サリバンは大陸会議のためにフランスの牧師から金を借りたが、このことで大陸会議はサリバンを外国の諜報員として告訴した。サリバンは8月に代議員を辞任した。 再び故郷に戻ると、サリバンは1782年に州の検事総長に任命され1786年まで務めた。この間に州議会議員にも選ばれ、議長を務めた。サリバンはアメリカ合衆国憲法の批准でもニューハンプシャーを指導し、1788年6月21日に批准となった。サリバンは1786年に外為 州の知事に選ばれ、続いて1787年、1789年にも選ばれた。 新しい連邦政府が創られるとワシントンは1789年にニューハンプシャー地方裁判所の連邦判事にサリバンを指名した。1792年以降、サリバンは健康を損ね(飲酒のせいでもある)執務に携われないことも多かったが、死ぬまでその職にあった。最後の数年間は病気と闘い、1795年1月23日にダーラムの自家で死去した。54歳。遺体は自家の墓地に葬られた。 トーマス・ジェファーソン (Thomas Jefferson), 1743年4月2日(ユリウス暦)/4月13日(グレゴリオ暦) - 1826年7月4日)は、第3代アメリカ合衆国大統領。首都ワシントンD.C.で就任演説をおこなった最初の大統領である。 カタカナ表記では /er/ を長母音にして「ジェファーソン」とすることが多いが、実際は短母音で発音は「ジェファソン」に近い。 1775年、大陸会議に参加し独立宣言起草委員としてアメリカ独立宣言を起草した。初代大統領ジョージ・ワシントンのもとで初代国務長官をつとめ、次の大統領ジョン・アダムズの代には副大統領をつとめている。のち外為 (現在の民主党) を創立。大統領在任中にミシシッピ川以西のルイジアナをフランスから買収し西部発展の礎を築いた。 英仏戦争に巻き込まれることを避け、出航禁止法を制定し、対外貿易を停止させた。 ジェファーソンはピーター・ジェファーソン(1708年3月29日 - 1757年8月17日)およびジェーン・ランドルフ(1720年2月20日 - 1776年3月31日)の息子としてヴァージニア州に生まれた。両親は共にヴァージニアに入植して何世代も経た家族の出であった。彼は1760年、17歳の時にウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、大学教育を2年間受けた。 独立宣言の採択後はバージニアに帰り、法制改革(長子相続制等やバージニア信教自由法の成立)に尽力。1769年にはバージニア州アルベマール郡の代議員に選出され、26歳で初めて政治的な地位を得た。1784年から5年間革命勃発直後までフランスに滞在。1785年からは駐仏大使としてフランス革命勃発直前のフランス社会をつぶさに観察し、農民の犠牲の上に成り立っていることを強く感じたという。 生まれつき声量が少なく演説が苦手であった。 妻マーサが早逝したため、ファーストレディの役割は長女のマーサ・ワシントン・ジェファーソンが務めた。 2期目の不人気から、墓碑には「大統領」の文字を刻んでいない。 1795年頃、ジェファーソンはジェファーソンの輪 (Jefferson disk) あるいはホィール暗号と呼ばれる多表式の暗号機を発明した。それは26枚の円盤があり、円盤の縁には1枚ごとにランダムな順でアルファベットが刻まれている。この暗号機の原理は後に再発明されて米軍の暗号機 M-94 となった。 近年の研究からユダヤ系である可能性が指摘されている。[1] アメリカ合衆国5セント硬貨・2ドル紙幣に肖像画が用いられている。 多くの歴史家はジェファーソンを歴代大統領の中で最も優れた人物の一人として考える。ジョン・F・ケネディは1962年にホワイトハウスへ49人のノーベル賞受賞者を招いた席で「私はこの今日お集まりいただいたみなさまが、ホワイトハウスにかつて集められた最も秀逸な才能と知識の集大成だと思います. . . トーマス・ジェファーソンがここで一人で食事をした時を除いては」と挨拶した。 建築家としても知られ、ヴァージニア州シャーロッツビルの自邸モンティチェロをはじめ、リンチバーグ(Lynchburg)にある別邸ポプラ・フォレスト(Poplar Forest)とリッチモンドのヴァージニア州議会議事堂(Virginia State Capitol)を設計した。モンティチェロはヴァージニア大学とあわせて世界遺産として登録されている。 公的には奴隷制度を非難する一方で、ジェファーソン自身が187人の奴隷を所有していたとの記録が残っている。また黒人は白人よりもあらゆる点で劣っており、二つの人種が一つの国家のもとで平等に暮らすことはできない[2][2] [3]との意見を表明する一方で妻の死後に奴隷のサリー・ヘミングスを終生愛人とし、数人の非嫡出子をもうけた疑いが濃厚であるため、偽善的だとの見方もある。なおジェファーソンの研究者は、ジェファーソンが奴隷を所有し続けたのは莫大な借財をかかえていて奴隷を解放できなかったためと考えている。[4] ジョージ・ジャーメイン(英:George Sackville, 1st Viscount Sackville、あるいはLord George Germain、1716年1月26日 - 1785年8月26日、枢密顧問官、初代サックビル子爵)は、イギリスの軍人、政治家である。アメリカ独立戦争中はノース卿内閣のアメリカ植民地担当大臣を務めた。ジャーメインの執政はイギリスがアメリカ植民地を失ったことで大きな非難を受けた。ジャーメインの発した軍事関連の細かい指示は、彼が植民地の地理や植民地人の決意を理解できていなかったこととも相俟って、このような非難を呼ぶもとになったと考えられる。 ジャーメインは、アイルランド総督でくりっく365 ドーセット公爵ラオイネル・クランフィールド・サックビルの3男として生まれた。ジャーメインは1737年にダブリンにあるトリニティ・カレッジを卒業し軍隊に入った。ジャーメインの経歴は2つの流れがあった。軍隊での経歴では幾つかの功績を挙げたが、軍法会議で終わった。政界での経歴はノース内閣の大臣でアメリカ植民地の喪失とともに終わった。 ジャーメインの軍歴は第7騎兵隊(後の第6竜騎衛兵隊)の大尉で始まった。1740年、ジャーメインはグロスターシャー歩兵連隊に中佐として転属した。この連隊はオーストリア継承戦争でドイツを転戦した。1743年、ジャーメインは名誉昇進の大佐となった。 ジャーメインは、1745年のフォントノアの戦いではカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスの歩兵隊を率いて参戦した。この時ジャーメインは捕虜となったが、負傷していたのでフランス軍は丁重に扱い釈放した。ジャーメインは帰国すると、第20ワラント 擲弾兵連隊の大佐としてスコットランドに駐留した。 1747年と1748年、ジャーメインは再びカンバーランド公部隊に加わり、第7アイルランド騎兵隊の大佐としてオランダで従軍した。戦争の合間に軍務を休み、ジャーメインの父の第1秘書官やアイルランド議会の議員を務めた。この期間のジャーメインはホモの評判も取ってしまった。 七年戦争の間、不動産投資 は軍務に復帰し、1755年には少将に昇進して規律を監督する職務に就いた。1758年、ジャーメインは第4連隊を指揮しマールボロ公の部隊に中将として加わった。この部隊はドイツでブランズウィック公フェルディナンドの同盟軍と合流した。マールボロ公が死ぬとジャーメインはイギリス軍の指揮官となった。 1759年8月1日のミンデンの戦いで、イギリス軍とブランズウィック軍はフランス軍の中央に対し狂ったように勇敢な攻撃を仕掛け成功した。その攻撃部隊はフランス騎兵隊が迫り来る中で最後の瞬間まで溜め置かれ、10ヤード(9 m)もない至近距離からの一斉射撃で撃破した。フランス軍が撤退を始めると、フェルディナンドは止めを刺そうとしてイギリス騎兵隊に突撃を要求したが、ジャーメインはその許可を出さなかった。フェルディナンドは何度も要求を繰り返したが、ジャーメインは作戦指揮官のグランビー卿との仲が疎遠になっていたので、グランビー卿に「栄光の勝利」を得させるような許可を出せないままとなり、連合軍は決定的な勝利を得る機会を逃してしまった。その結果ジャーメインは免職され帰国させられた。 ジャーメインは命令不服従に対する責任を取ることを拒否した。イギリスに戻ったジャーメインは軍法会議を要求し、1760年にその要求が通った。しかし、軍法会議の結果は有罪となり、将軍職にある者に対してかってない奇妙で重い判決となった。判決は、ジャーメインの除隊を追認し、ジャーメインは「イギリス軍の任務に適さない」とし、この判決文がイギリス軍のすべての連隊で読み上げられ記録されることとしていた。国王は枢密顧問から彼の名前を外した。 ジャーメインは1741年以来何度か議会議員を務めていた。ダブリンとウェストミンスター(ロンドン)の両方で何期かを務めており、同時ということもあったが、党派に偏ることは無かった。ジョージ3世が王座に就くと、政治の分野で名誉回復を始めた。 七年戦争の結果、ヨーロッパは模様見合いの様相であったが、否定的な要素は無かった。フランスに対する勝利によって植民地帝国となったイギリスは戦争で起こったことを忘れさせてしまうような気配だった。イギリスが戦争で負った負債の償還が難しく、不安定な内閣が続き、党派は離合集散を続けた。1763年、国王ジョージ3世は目立たないうちにジャーメインを枢密顧問に戻した。 ジャーメインは徐々にノース卿の支持に回り、1769年にはその立場を鮮明にした。1769年ジャーメインの妻エリザベスが亡くなり、相続人がいなかったのですべての遺産をジャーメインが相続した。このことはジャーメインの財政を改善したばかりでなく、名を上げる機会も与えることになった。1770年以降、ジョージ・ジャーメイン卿と呼ばれることになった。 1775年11月10日、ジャーメインはアメリカ植民地担当大臣大臣に指名された。この時、ノース内閣には3人の閣僚がいた。1人はヨーロッパを担当し、1人がアメリカ、もう1人がその他の地域だった。対外関係以外に、これらの閣僚は植民地の管理とその地域での軍事作戦の責任を持たされた。 このことは植民地における反乱を抑える主たる責任者ということであった。ジャーメインは将軍を昇進させたり解任したり、資金や物資の手当てをしたり、また戦争の戦略立案にも関わるようになっていった。ジャーメインの常の進め方は、「...暴徒は...政治的なことで思い煩うべきではなく、政治のことは理解していないのだ」と考え、「...植民地の田舎者が我々を鞭打てるはずがない」との考えに基づいていた。 ジャーメイン卿と首相のノース卿は直面する戦争について3つの仮定を作り上げた。1つはアメリカ軍はイギリス軍には勝てないということ。2つ目は、この戦争は過去にヨーロッパで戦い成功してきた戦争と似たようなものであるということ。3つ目は、イギリスの勝利によって植民地との同盟という目標に達することであった。この仮定はすべて覆されることになった。